まず初めに今日は終戦記念日。私のおじいちゃんも夫のおじいちゃんも戦死していて会ったことがない。おじいちゃん達の犠牲のもとに今が成り立っている事に鎮魂の祈りを込めたいと思います。
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この数年、人生も半分過ぎたせいだろうか、自分の人生に起きた事が何十年も前に出会った人や事、なんなら生い立ちとか、点として存在した出来事が線に繋がって来て、え?そうつながるの?って、びっくりすることが多い。
あんな昔のことが今に繋がり、無意識下でやっていたことに助けられたり、なんで私は福岡に生まれ、宮崎に行き、関西へ渡り、ひょんなことからCAになって日本中を見て、外国や外国人と触れ合い、今、なんで富山にいるんだ?
いま、自分のやるべきことに辿り着いて、迷いなく、純粋にやれていることに感謝していることはこの一つ前のブログにも書いている。
今世で出会うべく人に会う為に住まう場所に流れ、自分がやるべき「あたわり」に気づく仕組みになっているのではないだろうか。
気づき始めたことの一つに、人に初めて出会ったり、何かを起こしたり、降り立つ場所、目に映るものについて、最初に心にぴんと来るときがある。直感というものである。これは、神様が教えてくれているんじゃないかと思うようになった。ピンと来る時には、邪念など入る前の一瞬の感覚なわけで、なんかそんな気がしたんだよねってよく言われるそれなのだ。
そう思い始めたのは、ここ数年のことで、以前は仕事においては、やりたいって気持ちが一番なのだが、駆け引きや損得勘定とか傷つきたくないとか邪念が判断材料で決めることもあったし、人との出会いについては、あれ?と違和感を感じても、よく知らないのに第一印象や理由のないなんとなくなんて決めるもんじゃないと思っていた。でも、こういう時はだいたいが、上手くいった試しがない。
そして、人生の半分を過ぎると思い返せば、やっと、第一印象やなんとなくは、ほぼ当たっていたことに気づく。
ここ最近は、そのなんとなくのアンテナの精度をあげて、やっぱりかと気づくようにしていたいというのが暮らしの中心的軸となっている。
なんとなくは一見曖昧のようだが、人生の半分以上の経験をかけてたどり着いた確かな勘なのだ。
私は、CAになって初めての訓練所での講義の時に、現役CAの教官が私達訓練生を前に発した言葉は『私を見てどう感じましたか?私の第一印象はどうですか?』と聞かれたことを鮮明に覚えていて、これは、飛行機に搭乗されるお客様に対して一期一会の精神でお迎えするという事を伝えたいのがねらいの問いであった。
この時、冷や汗を隠しながら、表面的にはよい印象なことを答えていたが、私の心の中は『なんて恐ろしい教官なんだ』というのが正直な印象だった(^^;)。この印象は、退職するまで、この教官が、教官から異動でCAに戻りフライトするようになってからも、変わることはなかった。(教官、ごめんなさい)
それから、支店に配属が決まり、フライト訓練に入ってからも、第一印象についてはかなりインストラクターから叩き込まれ、少しでも笑顔が足りないと、どうしたの?その顔、微笑むだけではお高く見られるだけでかえって印象が悪い、歯をしっかり見せて、満面の笑みでいなさいと何回も指導されたものだ。お客様には新人もベテランも関係ない、同じ品質を提供しなければならない、仕事はできる人がカバーするけれど、思いっきり笑ってお客様と接することは今のあなたでも唯一できることよと教え込まれた。
仕事が出来ず、半泣き状態で、その上、笑え、笑えと叱られてばかりだったが、なるほど、それなら私にもできる!と思いっきり笑った。
インストラクターが、私に指導する厳しい顔から、お客様には菩薩のような慈愛に満ちた笑顔とやさしい語り口調に瞬時に変わるプロ意識の高さにはさすが!と思わされた。
サービス業と保安要員という二つの性格を持ち合わせる職業ゆえに、満面の笑顔で、お客様に対して歓迎する心と、体調が悪そうではないか、不審者ではないかと安全に目的地まで運行するための観察もする。
これらの経験は、社会人1年生の私に初めて会う人に、第一印象をよくすること、時間を守り、TPOに合わせた身なりをし、笑顔で接すること、相手の様子を伺いながら対応することは、相手への誠意を表す姿勢だと学ぶこととなった。
そして、のちに56歳になる私には、第一印象というキーワードを強烈に印象づけたこの社会人1年生の学びは、第一印象をよくするという表面的なことではなかった。私はHSP気質というか、いわゆる繊細さんで物事に対して、特に初めての時は、受け取る情報量が多い。この性質を良い方に使えることが少なく、むしろ自分の弱点で考えすぎとか、気にし過ぎで、脳が疲れ果てることばかりだった。それは、自分に入ってくる情報を否定していたからだと思う。私だけが、ただ感じすぎているだけで、誰もそんなこと思ってもない、だけど、私が感じていることは実際正しいことが多かったのに、自分自身が否定していた。
それが感じすぎる性質を全肯定することで、かかわり方も判断できるようになり、選ぶ基準がとてもシンプルになった。そして、共感力に飲み込まれることも多かったが、それぞれの立場を想像して共感する力は、まぜこぜ富山の活動に繋がったのだ。
なんとなくの裏付けを取るために?自分の中で決めていることがある。
⚫︎1個でもひっかかることがあればクリアにする。
⚫︎言いにくいことほど、最初に言って確認する。
⚫︎初めて会う人とは、最初はなるべく1対1で会う。
⚫︎会って話すことを最優先する。
⚫︎言葉遣いに違和感がないか。
⚫︎判断は一晩寝かせる。
こうやって自分の人生に起こることに、何でだろう、いつもどうしてこうなるの?と言うことは、気づかなければ何回でも繰り返される。
直感に従うなんとなくは、感じるままにがごくごく自然で、あらがわないにつきるのだ。